ティモシー・ウィンター教授としても知られるアブドゥルハキーム・ムラド師は、現代を代表するムスリム知識人の一人である。英国のケンブリッジ・ムスリムカレッジの運営から世界各地での講演、研究活動や論考の発表など多くのプロジェクトに携わっている。2016年にムラドは近代性とその課題について講演を行った。そこで彼は「虎を乗りこなす」という表現を用いて、近代性から退却するのではなく、敵対的あるいは友好的なアプローチをもって立ち向かうことを論じた。
現代社会の現状
近代化は過去のヒエラルキーを解体し、君主制や宗教に基づいた同朋意識に代わって共和制や市民的義務が生まれた。啓蒙思想家やその大義を支持する人々によって推し進められた近代は、現在の状況へと至る道を切り開いたのである。自由市場は、すべての人が自分の長所によって成功することを約束し、国民国家は市民に自分の信念を表明するための公の場を与えた。
しかし多元主義的で開けているように見える社会の下では人々の反発や分裂が高まっている。アメリカとイギリスではポピュリズムとグローバリズムが闘っており、ニューヨーカーたちはアマゾン本社建設に反対し、イギリスはBrexitへと舵を切った。反体制派の中には、外国人嫌悪を掲げながら「伝統主義」を理想化するグループが増えている。一方極右勢力に対するリベラルなエスタブリッシュメントからの反応は、「リベラルではないイデオロギーを抑圧する」という逆説的な寛容の押しつけである。
啓蒙主義によって導かれた近代化は西洋世界特有の現象ではない。中国は権威主義的で非自由主義的でありながら社会や家族構成の解体が進み、2019年のインドの選挙ではツイッターが支配的なプラットフォームになると予想されている。同様に、これらと同じ概念や文化的課題、テクノロジーがイスラーム世界にも浸透しており、ムスリムがマジョリティを占める国々の首都でも西洋の商業化されたクリスマスを祝い、市民はソーシャルメディアを介してオンライン上で新たな共同体のアイデンティティーを生み出している。リベラルなイデオロギーが様々な言説を作り変え、近代性がいよいよ人々の間に浸透するという懸念が高まっている。近代に対する「イスラーム的応答」はどうあるべきか?
ユリウス・エヴォラと極右
ムラドは様々な議論を引き起こした『虎を乗りこなす』という本の著者ユリウス・エヴォラを筆頭に、近代に反対したヨーロッパの反体制派思想家たちの概要から話を始める。ムラドはまずエヴォラの人種差別主義者やファシストとのつながりについて言及するが、「知恵は信者のもの」というイスラームの精神に則り、害ある知識は避け、有用な知識には目を向けることを説いた。彼はエヴォラ思想のいくつかの部分は、イスラームの近代性の理解に一般的に役立つと考えている。
ここでムラドは、近代の優勢なイデオロギーである自由主義と、表面上では「寛容」を主張しているにもかかわらず、自由主義が抱えているその逆説的な「不寛容さ」について言及している。彼は、この不寛容さは、ヨーロッパにおける外国人嫌悪の高まりへの反応として、近年より顕著になっていると説明している。ムラドによれば、自由主義的でないイデオロギーに対して徹底的に不寛容である自由主義の本来的な暴力性を指摘する。レイシズムや共産主義のようなライバルの現代的イデオロギーだけでなく、イスラームのような古い伝統も「脅威」とならないように変換されない限り、リベラルな自由主義世界では「歓迎」されることはないのである。つまり、リベラルの唱える「寛容」とは、ほとんどがリベラリズムが抱える均質化の圧力を覆い隠すヴェールでしかないのである。
エヴォラについての話に戻ると、ムラドは彼を「預言者のようでありながら悲劇的な人物」と呼んでいる。彼の近代に対する洞察は有用でありその予測は不気味なほどに正確であるが、ファシスト的な観念と「ヨーロッパの第三の遺産」であるイスラームに対する悲劇的なまでの無関心によって汚染されている。伝統主義として知られるエヴォラのイデオロギーは、現代世界の行く末に対する警告を顧みない反近代的悲観論である。ムラドによればエヴォラは自分自身を預言者として見ていたという。彼は「精神の貴族」であり、近代が生み出した当たり障りのない無価値な世界が「重力に引き寄せられ」急速に堕落していくのを独自の視点から見ていたのである。エヴォラと彼に対応する思想家であるイスラム教徒のルネ・ゲノンは、人類は最期の時代に達したと信じていた。終末の日を予見していた伝統主義者たちは、近代という獣に対する人々の受動的な姿勢を軽蔑し、それに対抗し得る存在であると自負していた。伝統主義者達のこのような自信は、近代性の土台や物質的価値観の本質的な脆弱性と、伝統的な知識を介して霊的な力の源にアクセスする人間の能力への信頼に由来していた。それゆえに、彼らは何が何でも近代性という「猛獣を手なずける」ことを望んだのである。
ムラドは、伝統主義者の思想と現代のヨーロッパ極右との関連性について簡単に述べている。彼によれば、極右達は外国人嫌悪的な動機と並行して、近代性への幻滅と、伝統の中心にあった神聖さを失うことは、人類にとって恐るべき過ちであると考えているという。極右派の反移民・人種差別主義的な姿勢と伝統への憧憬をつなぐキーワードはアイデンティティの喪失である。王政が民主主義、階級制が平等、歴史的英雄がセレブリティのスターと交換されたように、国民国家の一員としてのアイデンティティーは足元から崩れていっているのである。啓蒙主義は世俗的な国民国家を誕生させ、何世紀にもわたって旧来のキリスト教秩序の後継者として君臨した。しかし今日、ヨーロッパの国民国家はアイデンティティの危機に直面している。ムラドは、これは啓蒙主義が神の代わりに採用した人間の主体性への畏敬の念に対するポストモダンの攻撃の結果であると説明している。つまり、近代化によって簒奪された宗教的世界観に対して提示された国民国家的な代替手段は、それ自体もまた切り捨てられたことに気付いたのである。そしてこのような気づきはヨーロッパの極右だけでなく、世界中で顕在化している非自由主義的な潮流の背後にあるものだとムラドは主張する。近代性は精神的なものに回帰することはできないようだ。
現代のイスラム教徒:表面的なものへの執着
ここでムラドは今日のイスラーム教徒と彼らの現代性との関わりに注目している。彼は現代のイスラーム教徒は物質主義者であり、ムスリムであることが何を意味するのか分からず、アイデンティティを探し求めているという点では、他の人々と何ら変わりはないと考えている。その結果、イスラーム教徒は根本的なものを犠牲にして表面的なものに執着するようになった。例えばヨーロッパの改宗イスラーム教徒たちはしばしば中東風の服やターバンを着ていたり、地域の文化と噛み合わないイスラームを実践したりといった奇妙な光景を生み出している。ムラドの学生が行った神経学的調査によると、ヨーロッパのイスラーム教徒は自分たちが信じていると公言していることを実際には内在化していないことが示されており、現代のイスラーム教徒は表面的なことに固執しているだけに過ぎないという彼の主張を裏付けている。
イスラームの歴史から見てこのような状態は極めて例外的である。例えばムラドはインドネシアのジャワ島のイスラーム化の過程を例に挙げる。インド洋によって南アジアや中東などのムスリム世界から分け隔たれていたため、イスラームは軍隊の遠征を通じてではなく、ムスリム商人によってジャワにもたらされた。それらの中には、神話的要素も含む「9人のイスラーム聖者(ワリ・ソンゴ)」がおり、ジャワ先住民の間でイスラームの普及に貢献した聖人の説教師であった。ムラドは、ワリ・ソンゴがイスラームの核心を見据えていたことに注目する。ワリ・ソンゴは身なりは地域文化に合わせ、服装や名前さえも変えていました。彼らは地域の言葉を用い、ジャワに伝わっていた既存の詩の形を借りながら、イスラームのメッセージを詩に込めた。今日までこれらの詩はジャワのイスラーム教徒によって受け継がれている。ムラドによれば、これは「宣教」の適切な方法であり、最も違和感を与えずにイスラ―ムの本質を伝えることができるという。
表層的な形式主義への執着は文化的に賢明ではないだけでなく、イスラ―ムの核心的な倫理を理解する機会を奪う形式的な戒律主義を生み出してしまっている。あらゆるものの内面に焦点を当てたイスラームを学ぶことで、イスラーム教徒は現代が提起する新しい倫理的問題を、少なくとも個人のレベルにおいては対処する方法を知ることができると、ムラドは何度も論じている。彼によれば、イスラームとは「そもそも伝統的に異質なものであった」のであり、そして異質なものであることは良いことであり、今日のイスラーム教徒は形式的なものよりも根本に焦点を向けなければならない。
ムラドは『イスラームの五つの色』という本を書いたフランス人改宗イスラーム教徒のヴァンサン・マンスール・モンテイユを紹介し、イスラームがいかにタウヒード(一神教)という白いプリズムの中に集められた虹色に輝く文化の光であるかを説明している。モンテイユは、「イスラームには適応性はあるが変容性はない」という理解こそが、ヨーロッパのイスラームにとって鍵を握っていると信じていた。彼はまたヨーロッパのイスラーム教徒がこの理解をどのようにしてヨーロッパ社会の中で実現するかについて提言している。最初の移民の世代は、彼らの母国に根付いた土着のイスラ―ム、生のイスラ―ム、そして現代性をジャグリングする輪の中で立ち往生している。それとは対照的に、他のイスラーム教徒たちは、一方では生のイスラ―ム、もう一方では現代性という単純な弁証法の中にいる。ムラドは、このアイデンティティの葛藤は解決できる課題であるというモンテイユの信念を受け、彼がいかに現代世界からの徹底的な退却に反対しているかを論じている。
近代性を受け入れることの愚かさ
ムラドは同様に近代性の受容に反対している。近代性という「猛獣を乗りこなす」の難しさの一部は、常に変化することである。現代の道徳について唯一確かなことは、いま認められている価値も20年後には違ったものになっているだろうということであり、それがイスラーム教徒にとって現代的価値を受け入れることを困難にしている。ムラドは、近世エジプトの「改革者」たちが西洋風の大学を最初に開校した際に女性を排除した例を挙げている。実際にはそれはイスラームではなくヨーロッパの規範に沿ったものであった。現代の様々な傾向は西洋から始まったとすると、「近代主義」と呼ばれるイスラーム教徒はヨーロッパ人が自分たちよりも道徳的に優位に立っていると信じ、終わることのない猿真似に明け暮れているのである。ムラドは、このような猿真似から脱するためにイスラーム教徒はより原理的な(アラビア語でウス―ルと呼ばれるもの)道徳的規範を築かなければならないと主張する。ムラドは近代性に対する「イスラーム的アプローチ」が過剰な戒律主義に陥ることや表層的になることを恐れているようだ。そのようなアプローチはカフェで行われるようなスピリチュアルセラピーでしかなく、「これはハラールなのか」とイスラーム法的に大丈夫かどうかをうわべだけ考えることに過ぎないからだ。ムラドは、今日の多くのイスラームに特徴的な近代性に対するこのようなアプローチは心の中に多くの葛藤を生じさせ、劣等感から目を背けているだけだと言う。
しかし、ムラドは現代におけるイスラーム教徒の状況についてただ悲観的なわけではない。それがエヴォラや伝統主義の思想家たちとは異なっている点である。ムラドは、世界中のイスラーム教徒が現代の状況に惑わされることなく、1日5回の祈りとラマダン断食を続けていることを聴衆に思い出させた。クルアーンは暗唱され続け、イスラーム教徒はモスクを運営し続けている。しかし最も重要なことは、タウヒードは残っていることであり、それは近代の偶像がムスリムの中に生きるタウヒードを歪めることができないことを証明している。どれだけイスラーム教徒がダメであろうと、イスラームは未だ存続しており、イスラムは簡単に信仰生活を再開することができる。
精神の隠遁
ムラドは、現代社会から退却しようとするイスラーム教徒を評価しながら、彼の分析を締めくくっている。しかしここでの「退却」とは文字通りの意味ではなく、むしろ心の隠遁である。彼はイスラームにおける隠遁主義の否定や預言者ムハンマドの積極的な社会との関わりを例に挙げながら、終末論的な預言者の予言を鵜呑みにして安易に孤立主義に走ろうとするイスラーム教徒達に立ち止まって考えることを勧めている。「社会の中での隠遁」(ペルシア語でハルヴァト・ダル・アンジュマン)というアプローチを提案している。これはイスラームの実践は損なわずに、現代文化や生活の中で消費されるモノを受け入れることを意味する。
ムラドはイスラーム教徒にとってのリアリティは内側にある(すなわり、神は内なる静けさの中に見いだされる)ため、私たちは信仰のためより深く心の奥底を探求しなければならないが、この内的探求は私たちが他の方法では経験できないような精神性に満ちた社会生活への扉を逆説的に開くことになると指摘している。表面的には近代性には人間らしさはなく距離を置くことが必要であることを認めているが、私たちのコミュニティを放棄することもまた伝統が求めるものではない。
ムラドのメッセージは、以下のように要約することができるだろう。近代性がもたらす将来への懸念にもかかわらずイスラームはまだ残っている。イスラームの核となる信念と基本的な実践は歪曲されていない。近代性は脅威であり親しき友とはなり得ないが、それに真っ向から反抗することは賢明ではない。むしろ、私たちはこの猛獣と並んで生きることを学ばなければならない。
About the Author: Sami Omais is a graduate in political science and European history. His interests include traditional Islamic sciences, geopolitics, Middle Eastern history, and Islam in America.
This article was generously translated by Qayyim Naoki Yamamoto, Ph.D. Assistant Professor at Institute of Turkic Studies, Marmara University. Contact: naoki.yamamoto@marmara.edu.tr
山本直輝
1989年岡山県高梁市出身。広島大学付属福山高等学校卒業。
同志社大学神学部卒業、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。専門はスーフィズム、トルコ地域研究。現在はマルマラ大学大学院トルコ学研究所助教。主な翻訳に『フトゥーワ―イスラームの騎士道精神』(作品社、2017年)、『ナーブルスィー神秘哲学集成』(作品社、2018年)。スーフィズム入門(集英社新書プラス、2019年~2022年)